正岡容(まさおか・いるる)、明治以降より江戸文化を評価した演芸作家

 正岡容(まさおかいるる)とは一般には極めて知名度の低い人物と言えるが、その

筋では一種の巨人、というと語弊があるにせよ、偉大なる存在感を持ち続けた

演芸作家、寄席芸能評論家、作家であったが、如何せん仏はイメージがつかみにく

いと思われる。更に付け加えれば、歌、俳句にも優れていた粋人である。18歳におい

て歌集『新堀端』を出して、その翌年は長編小説『影絵は踊る』、文藝春秋に直後に

発表した『黄表紙・江戸再来記』で文壇にも認められた。まだ19歳であった。さらに

続けて短編小説を連発、題名からして個性的の極みである。

 ところが小説家にはならず、生涯を演芸、落語を中心とする寄席芸能評論に捧げ

たといえる。正岡は真の文化は江戸時代にあると考えた、これはその思想の根底に

あり続けた、明治以降は文化の崩壊でしかない、だからそれに抗するべく演芸を江

戸時代の真髄に近づける、という思いがあったように思える。明治以降は偽りである

、という思いである。

 ただ本音は作家、本格的な小説家志願であったかもしれないが。肝心なときに悲運

に襲われてしまう。関東大震災、大阪に移った。大阪での生活体験がかみ方落語への

知見に大きく貢献した。

 年譜を見ると

 1923年、大正12年 『影絵は踊る』刊行、「黄表紙・江戸再来記」を『文藝春秋』に

             発表、芥川龍之介の絶賛を受ける

    同年9月1日 関東大震災、当分復興の見込みがないとして関西を旅する。

 1925年 大正14年 三遊亭圓馬の紹介で石橋幸子と結婚 大阪に住む。この頃

             文士落語と称して、自作の落語、漫談を大阪各地の寄席舞台

             に出演

  1927年 昭和2年 自殺未遂

  1928年  昭和3年  漫文集『あじやらもくれん』刊行  柳家金語楼と共著

  1929年 昭和4年 ニットーレコード専属となり、作詞を手がける。この頃、小田原市

             郊外に他の女性と同居

  1940年 昭和15年  俳句集『日日好日集』を刊行

  1941年 昭和16年  舞踊家の花園歌子と結婚

  1942年 昭和17年 、9月名作と言われる長編小説『寄席』刊行、さらに冬から代表作

              とみなされる『円朝』を執筆

  1944年 昭和19年『雲右衛門以後』刊行、これも代表作とされる。一段落ちる演芸と

             みなされていた浪曲を高く評価している。

  1946年 昭和21年 夏、同じ市川に住む永井荷風を訪れた。随筆集『荷風前後』など

              数冊刊行、花園歌子の創始の流派、花園りゅう披露舞踊会の立

              案構成などを行う。

  1957年 昭和32年 『次郎長外伝・灰神楽の三太郎』上映、翌年続編上映、

  1958年  昭和33年死去

 正岡は著名な弟子を持っていた、桂米朝、また小沢昭一、作家の大西信行

 米朝は「愛憎ともに激しすぎたから、もう耐えられなくなって酒を飲んだ。酒は好きは

 好きだったけど、単に好きでは説明がつかない」

 林家正蔵 「酒乱なんて言う人がいるが、そうじゃないんだ。酒を飲み始めたら、それ

だけに一途になる、まあ純粋というべきか」

 稲垣足穂 「純粋な奴だったな、それだけに世渡りが下手だった。でも人に愛された」

     「彼は情調の人だった、彼を奇人というけど、そうは思わないな、常識の人だ

 った。気の弱い常識人だった」

     「正岡とは思い出ならずや」 

 林家正蔵 「『多い、多い』で玄関を叩くんだ、べろんべろんだよ。出した酒を一口飲ん

 で横になる。弟子が抱えて二階に運んで寝かせた。子供だったよ、ありのまんまだっ

 たな」

  「朝やってくるんだ、市川の自宅からだろうな、椿の小さな花を持ってきて、とっくりに

差して、長火鉢の上に置くんだ、

  じっと見ていて   『長屋の一輪』

  『うーん、こうでなきゃ』と一人で悦にいっている。

 『野に咲いた椿が長屋の女神かな』

 わけのわからない俳句を作って、また酒を飲み始めた」

 

 1958年、昭和33年、逝去、事前に辞世の句を作っていた。

    打ち出しの太鼓聞こえぬ真打ちは

    まだニ、三席やりたけれども」

 まだまだやり足りずこの世を去ったひとである。誰よリも江戸文化を愛した、明治以降

の世の中は愛すべき世の中ではなかった。