『カランコエの花』鑑賞

中川 駿 監督

誰なんだろう? この4人組の中だよね。ひょっとして主人公、いや、先生かも?

そんな風に「(あえて)犯人探し」をしながら観ている自分がいることに気づく。

映画だから? いや、きっと違う。

今の俺は、いわゆる「恋愛感情」というものが消えて(完全抑制されて? …まあこの辺りの話はまた別物ってことで)いるからどこかクールに受け止められるけど、高校生の頃なんて、性にロックを被せてその上にまた性を被してその上のバイトその上に性…っていう「性の団段重ね」みたいなもんだった。

あの頃の俺ならLGBTって授業で聞いたら「へー、ゴムとかピルとか要らないなんて、羨ましいね」とか言うんだろうな。

あのお調子者の男子学生は、「LGBT」というものを特別にしたくなくて、日常の題材にしたかっただけなんだ。スルーすることなく軽く茶化しながら、日常に溶け込ませていきたかった…自覚的ではなかったけれど。

保健の先生(はるちゃんだっけ?)は、ちょっと先回りして「良い事」をしたかったんだろう。彼女が自分を信用してくれて頼ってくれたことに、積極的に応えたかったんだ。もしかしたらはるちゃんこそが、このあと一番悩むのかもしれない。

桜さんの黒板でのカミングアウトは勇気かもしれないけれど、物事の決着を急いだいわば自傷的な行為だったんじゃないか。バス停で言葉として告白できなかった(行動としては告白したのに!)自分が嫌で、このあとクラスにどうバレていくかと恐れながら過ごすのが嫌で。そして好きになった相手に受け入れられない現実と立ち向かうのが不安で。

主人公の素直さがステキな女子。ただ護りたかったんだよね。「もう少し前に何かできたかも」ってきっと後悔があって、黒板を観たときに、とっさに出てきちゃった言葉だったんだよね。きっといっぱい泣いていっぱい考えていっぱい悩むんだと思う。そしてきっと、彼女は保健室で聞いちゃった友だちと一緒に、桜さんのところに向かう。きっと友だちには戻れるだろう。でも、やっぱり前とは違うよね。

ところで、映画の描き方として、エンドロールとともに流れる会話のシーンには疑問がある。

あれはいるだろうか? いるにしても、あそこまで細かくバラす必要はあったのだろうか?

「先生にいろいろ話せてよかった。また話にきていいですか?」という笑顔の退出シーン、「あ、忘れ物。大切な人のなんでしょ」と英語のノート それくらいが良くないだろうか?